東日本大震災医療支援隊

日本登山医学会東北大震災医療支援隊、3/24出発しました。

4トントラックに、ミルクや水やおむつやガウンややマスクや消毒機材、医薬本、などを積み込んでいます。トラックは、医療構想千葉というNPOがしつらえました。載せる荷物は日本小児アレルギー学会・アレルギー児を支える全国ネット「アラジーポット」・多数の千葉県や東京の医療機関などから預かっています。

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登山医学会ですから、山用の下着やサプリメント、ヘッドランプやスイスアーミーナイフもロットで用意しています。ビクトリノックス・ジャパン株式会社さまやミウラドルフィンズ様からご寄贈いただきました。テント、マット、寝袋も国立登山研修所からお借りしています。もちろん、家を出るときにお向かいの93歳のおばあさんから頂いたみかんとおかきと缶詰も積んであります。明日から、宮城と岩手のいくつかの医療機関や役所にお届けします。

明日から、宮城と岩手のいくつかの医療機関や役所にお届けします。

これまた、登山医学会ですから、医者もいれば、運動指導士もいれば、山岳ガイドもいます。衣食住足が完全自立でき「普通の医者が行けない危険なところ、交通手段もないところでも行きますよ」というのが売りなのですが、震災後10日以上もたって、そろそろ落ち着いてきたころのようで、急性期の切った貼ったは過ぎ去り、メンタルの問題が前面に出てくる時期のようである。それならそれ
で、精神科医もいるので困りはしませんが。

3月25日

4:45起床 寒い晴れ
昨夜は高速道路PA泊まり。
ここには、東京からは増山・澤谷・安藤のJSMM会員に加え、4トントラックをアレンジした医療構想千葉の田井、積極的に参加を申し出てくれた有志の登山家の棚橋。松本からは、千島とボランティア的にこのプロジェクトに参加を申し出てくれた有志の登山家黒田、そして埼玉でピックアップされた関崎。そして、神戸からは、震災を経験したことがある、登山家島田が集まった。

 今日から東北自動車道の一般通行可能になっている。渋滞と覚悟していたがまだ空いている。ただ、郡山を過ぎると道路が波打つところが出てくる。80キロ制限となる。PAのガソリン入れは長蛇の列。当方は救援車両の認定を受けているのだが優先措置はなさそう。

協議の結果、隊を2つに分ける。安藤トラック隊は、宮古市、盛岡市へ抗アレルギーミルクや医療・介護資材を配達する。他は気仙沼を目指す。

5:00出発。一関インタを出て、東へ。朝日がまぶしい。早朝なのに街中はガソリンを求めるクルマが列をなす。

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700 気仙沼着。インタから太平洋に向かう途中、地震の爪あとはほとんど感じられない。表面的には家屋に損傷は見られない。気仙沼市内に入っても、気仙沼市役所あたりまではよく見る普通の地方都市の街並み。しかし角を廻ると街並みが一転する。がれきの山。ビルが傾き、家屋はつぶれ、道路は粉砕され、小型船が埠頭に鎮座する。

8:00 保健健康センターすこやかで、気仙沼地区災害対策のDMATチームのミーティングが行われる。どうも我々の出番はなさそうである。
 混雑する気仙沼市災害対策課に抗アレルギーミルクを届ける。日本小児アレルギー学会からの依頼である。担当の災害対策課千葉氏はこの性質のミルクの特殊性をよく理解しておられた。

 その後、石巻市に向かう。ここの北上町十三浜は、東北三陸地方のほとんどの被災地がそうであるように、被害甚大・報道極小・支援細々、の地域である。

 気仙沼から大回りして北上川左岸を下ってゆく。驚くべき光景が広がる。北上川河口近くの鋼鉄の橋梁がふきとばされ、ベトンの水門が破壊されている。右岸の堤防は決壊し右岸域は広い範囲で水没している。左岸も川が伏流化しているかと錯覚させられる。船は丘に登り、断崖の裂け目にクルマがはめ込まれている。田は池と化し、林はクリスマスツリーとなっている。

ある地区の状況を見る。津波を予想し避難所としてつい最近作られたばかりの総合支所の太い鉄骨支柱は扇のようになぎ倒されている。裏手の消防の建物は鉄の骨組みとなっている。横手にある小学校は、旧と同じに残っているのはかろうじて屋上の一部分である。この一角で一部の先生と生徒があの一夜を過ごしたのだという。3月11日以前には存在したはずの数十の建造物は、この地区には、この3つの残骸以外ない。

このあたりは石巻市北上町十三浜と呼ばれる。地区はほぼ浜に対応するであろうか。北上川河口から北東へ伸びる、枝尾根で区切られギザギザとなった、リアス式海岸は多くの小さい浜を持つことになる。その浜で何度も(13回も?)私たちは巨大な地球の力を目撃することになる。
 仮補修中の崩れた堤防の上を通り、流された橋を高巻きし、がれきをわずかに取り除いた細道を縫って車を進める。

 14:00過ぎ、相川避難所に到着。電気・水・ガス・ガソリン・電話・ケータイを失った340人がここを頼りにしている。加えて家を失ったその半分170名がこの施設で寝泊まりしている。
 リーダーの鈴木学さんも、海から600mも離れていた自らの家を失った。長女の凛さんを助手にしながら、ニコニコ笑ってくるくる被災者の間を歩いてテキパキ厳しい健康管理を指導をしている保健師の阿部裕美さんは、あの日、家もご主人も同時に失っている。

 避難所は津波を免れる高台にある立派な建物であるが、足元は冷たい。国立登山研から預かったロールマットを敷くことを提案する。皆様、喜ぶ。喜ばれるとこちらもとてもうれしい。

 そのあとは、「大指林業者生活改善センター」に伺い、その足で災害対策本部へ。責任者今野照夫氏(北上総合支所)と相談し、明日以降ここの指示で動くこととなる。
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安藤トラック隊は任務を完了。安藤は
・宮古市、熊坂医院に医療機材、介護用品を届ける(千葉県がんセンターより)。熊坂先生によれば、宮古の状況は好転しつつある。急性期は過ぎ去り、医療供給は地元の慣れた医療機関でまかなえる状態にある、とのこと。よかった。
・盛岡赤十字病院小児科(小児アレルギー学会より)にミルクおよび医療介護用品を届けた。この二箇所を回り、夕刻に本体に合流する

3月26日

起きると雪。寒い。避難所も寒いが、流失せず残った家屋はもっと寒いはずだ。電気も水もガスも灯油もなくこの朝を迎えるのは厳しかろう。

 8:00 北上中学校の上にあるスポーツパークに設けられた総合支所災害対策本部の各避難所リーダーのミーティングに出る。各避難所からの報告が終わったあと、登山医学会チームの自己紹介をする。本部には、支所そのもの、警察、消防、自衛隊が同居している。無駄のない議事進行、テキパキとした指示に感心する。

 石巻市中心部も壊滅的被害を受けた。原発のある女川もすぐ南にある。すぐ北は南三陸町。中心部から離れている北上町はそれと並べると「有名」であるとはいえないが、被害は有名さと比例するわけではない。
 石巻市北上町は、人口4000弱。被災者1501名。全家屋の約半分が被害を受けた。死者125名行方不明305名、あわせて430名。行方不明者と死亡者数は毎日変わる。昨日も十数件の葬儀が行われている。避難所は11か所ある。石巻日本赤十字病院が中心となって医療巡回業務を行っている。愛媛大学チームが継続的援助を行っているし、東京大学チームの記録もある。地元の只野先生も頑張ってお
られるようだ。
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今回の私たち日本登山医学会/医療構想千葉チームの担当は、浜地区である。浜地区でないのは、川地区とでもいうのだろうか、北上河口付近を指し、浜地区とは文字通り浜がある地域を指す。壊滅的津波がまず押し寄せた地域である。本日の巡回は浜地区、小滝と相川と大指の3か所の予定である。
 まず、北上中学校の体育館(地域最大の避難所となっている)に医薬品のピックアップに行く。かなりの種類と量の医薬品が揃っている。巡回診療には十分であろう。

 この避難所では、だだっ広いひとつの空間に300人近くが生活している。床は冷たく、天井は遠くにあって体温を奪う。さえぎる仕切りなどもなくプライバシーを護るものは何もない。
 そろそろ震災津波から2週間。ストレス性の心身反応や感染症が問題になる時期である。被災者の間で小さないさかいが起こり始めてもおかしくないし、またインフルエンザが先日発生したという。

今回のメンバーには医師の他にも、山岳や野外活動の専門家が揃っている。国立登山研修所からテントやロープやマットを沢山お借りしているし、ビクトリノックス・ジャパン株式会社様からはスイスアーミーナイフや高性能ライトもご寄贈いただいた。これらを避難所生活の改善に役立てるのも今回のmissionのひとつである。
 登山専門家チームの出番である。さっそく子供たちを集めてテントの設営から始める。ヒマラヤの極寒強風に耐えるダンロップの極地用テントも子供たちにとってはただの遊び道具である。子供たちの声を聴いておかあさんおばあさんがたが集まってくる。「子供たちのキャッキャいう声を久しぶりに聞きました」と語る。子供たちがテントの中で遊んでいるのを見ながら、暖をとり寒さ避け、湿気を防ぐ実践的方法などのミニレクチャが始まる。
 被災者用の仮設トイレは外に設置してある。しかし車いす利用者用の便器は生活者と同じ空間にあって簡単な囲いがあるだけである。ダンロップテントのフライを利用してうまく全体を覆う工夫をする。

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3月26日その2

午前の巡回診療は小滝地区から始める。十三浜ではもっとも遠く海に飛び出し た突端にある。ここから小尾根を越えて回り込めば南三陸町となる。
 まず、脊髄小脳変性症+DMの患者さんのいるお宅を往診する。枝尾根の末端部あたりに立っているそのお宅からは両側に見える浜の港周辺施設・家屋は全て壊滅状態である。3艙あるうちの2艙を失った漁師の方は、家も加工場も翌日出荷の予定であったわかめやホタテを入れた倉庫もすべて失った、沖合にある養殖所も壊滅した、と語る。この家のような高台は無事だったが、この自宅待機状態の方には、電気水食料の配給が滞っている。とくに夜間の明かりに苦労されている。ビクトリノックス・ジャパン株式会社のペンライトはとても喜ばれた。
 小滝公民館の避難所で10名ほどの診察。ほとんどの方の正確な医療情報は得られない。「どこの病院にかかられていましたか」「あの、無くなってしまった志津川の病院です」その時点ではこの意味が理解できなかったのだが、とまれ、震災地の患者さんは家や家族を含めすべてを流されてしまい、自らの医療情報ももちろんそうである。どのような病気でどのような治療をしてきたかが、全くわか らないまま被災者の治療が細々と行われている。病院もろともすべての情報が消えてしまう可能性のある災害医療においても、どこからでもアプローチ可能なPHR システム:どこでもMY病院システム http://gocce-duva.com/myh/ が必要だと痛感される。
 最後にもうひとつ往診。重度のRAの方である。南三陸町で夫婦もろとも流されぎりぎりで救出された。ご主人は油の浮いた海水を飲んで臥せっていたが、昨日吐血してお亡くなりになったという。膝や腰が痛くて動けない。数日前にもらった薬の中には、いままで服用していた最新のRA治療薬が含まれていない。対策本部にある薬剤だけでは足りないのである。緊急の消炎剤だけお渡しし再度来るこ とを約束する。夜間用シート×1パックをお役にたててもらう。
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14:00 相川の避難所(子育て支援センター)にて診察・物資供給
 10名程の診察を行う。今日はリーダーのS氏(66)が、熱を出して寝込んでいる。自宅が流されてから2週間。2月に完成したばかりで正式にはオープンしていない子育て支援センターと保育所を避難所として立ち上げ、当面の衣食住の対策を陣頭指揮してきた。3キロ先の山中から湧き水をパイプで引き、まきを集めて大釜に湯を沸かし、がれきの中からプロパンガスのボンベをかき集め、煮炊き
に供する。「浜に近い集会場は全て津波で流されました。ここがなかったらどうなっていたか、」と話すセンターで170名の被災民の一人として雑魚寝の生活である。
 自衛隊が入り、お風呂サービスが昨日から可能になった。食料はなんとか輸送されるようになったし、NTTがようやく衛星電話をセットしてくれた。我々のような医療チームも入ってくる。少し安堵してどっと疲れが出たのですよ、と保健師の阿部裕美さんが話す。急性期、亜急性期を経てそろそろ長期戦の体制に入る時期なのであろう。
 170名では狭い避難所スペース。低体温症対策やプライベート空間としてテントを提供。昨日のマットも。ペンライト約40ケ、ナイフ約10本。

16:00 大指の避難所(林業者生活改善センター)
 大指地区38軒のうち流されたのが13軒。残ったのが24軒。浜の港はカオスである。船は腹を見せ魚網は林に絡みつく。家はばらばらにされ車が丘に登る。地区の船はすべてやられた。漁協の建物も消えた。わかめ、ほたて、かき、収穫物だけではなく、沖の養殖場もぜんぶやられた。三陸すべてがやられた。
 これほどの力がやってきたにも拘わらず、行方不明者はたったの一人だけである。浜の人は、海が引き始めたとたんに皆逃げた。川沿い地区の人は堤防に登って津波を見物していた人もあるという。ある小学校では、下校時に当たり30人もの小学生が呑み込まれたという。
 ここには90名ほどの被災者がいる。10名程の診察を行う。
公民館に泊っているのは30人程度。残りは寒い自宅にいる。もっとも遠い避難所の一つであるので、NTTの衛星電話サイビスからも漏れている。電気水ガスはもちろんない。物資供給も十全ではない。物資の提供を行う。夜間用おむつシート×4パック、マスク500ヶ、ペンライト約40ケ、ナイフ約10本。ミネラルウォーター48 。テント6人用×1。自転車×1 シ-ト×2 カセットコンロ×2、ボンベ×12 ウェア×3 新品タオル×10など。

本日の安藤ミルク配達隊は、
・仙台市宮城野区 ヘルシーハット
・名取市役所社会福祉課子ども福祉係
・塩釜市役所対策本部総務課
・石巻赤十字病院
に、アレルギー用ミルク+アレルギー用食材、診療材料などを届けることができた。

 今晩はこのセンターの片隅をお借りして寝る。

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3月26日その2

午前の巡回診療は小滝地区から始める。十三浜ではもっとも遠く海に飛び出し た突端にある。ここから小尾根を越えて回り込めば南三陸町となる。
 まず、脊髄小脳変性症+DMの患者さんのいるお宅を往診する。枝尾根の末端部あたりに立っているそのお宅からは両側に見える浜の港周辺施設・家屋は全て壊滅状態である。3艙あるうちの2艙を失った漁師の方は、家も加工場も翌日出荷の予定であったわかめやホタテを入れた倉庫もすべて失った、沖合にある養殖所も壊滅した、と語る。この家のような高台は無事だったが、この自宅待機状態の方には、電気水食料の配給が滞っている。とくに夜間の明かりに苦労されている。ビクトリノックス・ジャパン株式会社のペンライトはとても喜ばれた。
 小滝公民館の避難所で10名ほどの診察。ほとんどの方の正確な医療情報は得られない。「どこの病院にかかられていましたか」「あの、無くなってしまった志津川の病院です」その時点ではこの意味が理解できなかったのだが、とまれ、震災地の患者さんは家や家族を含めすべてを流されてしまい、自らの医療情報ももちろんそうである。どのような病気でどのような治療をしてきたかが、全くわか らないまま被災者の治療が細々と行われている。病院もろともすべての情報が消えてしまう可能性のある災害医療においても、どこからでもアプローチ可能なPHR システム:どこでもMY病院システム http://gocce-duva.com/myh/ が必要だと痛感される。
 最後にもうひとつ往診。重度のRAの方である。南三陸町で夫婦もろとも流されぎりぎりで救出された。ご主人は油の浮いた海水を飲んで臥せっていたが、昨日吐血してお亡くなりになったという。膝や腰が痛くて動けない。数日前にもらった薬の中には、いままで服用していた最新のRA治療薬が含まれていない。対策本部にある薬剤だけでは足りないのである。緊急の消炎剤だけお渡しし再度来るこ とを約束する。夜間用シート×1パックをお役にたててもらう。
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14:00 相川の避難所(子育て支援センター)にて診察・物資供給
 10名程の診察を行う。今日はリーダーのS氏(66)が、熱を出して寝込んでいる。自宅が流されてから2週間。2月に完成したばかりで正式にはオープンしていない子育て支援センターと保育所を避難所として立ち上げ、当面の衣食住の対策を陣頭指揮してきた。3キロ先の山中から湧き水をパイプで引き、まきを集めて大釜に湯を沸かし、がれきの中からプロパンガスのボンベをかき集め、煮炊き
に供する。「浜に近い集会場は全て津波で流されました。ここがなかったらどうなっていたか、」と話すセンターで170名の被災民の一人として雑魚寝の生活である。
 自衛隊が入り、お風呂サービスが昨日から可能になった。食料はなんとか輸送されるようになったし、NTTがようやく衛星電話をセットしてくれた。我々のような医療チームも入ってくる。少し安堵してどっと疲れが出たのですよ、と保健師の阿部裕美さんが話す。急性期、亜急性期を経てそろそろ長期戦の体制に入る時期なのであろう。
 170名では狭い避難所スペース。低体温症対策やプライベート空間としてテントを提供。昨日のマットも。ペンライト約40ケ、ナイフ約10本。

16:00 大指の避難所(林業者生活改善センター)
 大指地区38軒のうち流されたのが13軒。残ったのが24軒。浜の港はカオスである。船は腹を見せ魚網は林に絡みつく。家はばらばらにされ車が丘に登る。地区の船はすべてやられた。漁協の建物も消えた。わかめ、ほたて、かき、収穫物だけではなく、沖の養殖場もぜんぶやられた。三陸すべてがやられた。
 これほどの力がやってきたにも拘わらず、行方不明者はたったの一人だけである。浜の人は、海が引き始めたとたんに皆逃げた。川沿い地区の人は堤防に登って津波を見物していた人もあるという。ある小学校では、下校時に当たり30人もの小学生が呑み込まれたという。
 ここには90名ほどの被災者がいる。10名程の診察を行う。
公民館に泊っているのは30人程度。残りは寒い自宅にいる。もっとも遠い避難所の一つであるので、NTTの衛星電話サイビスからも漏れている。電気水ガスはもちろんない。物資供給も十全ではない。物資の提供を行う。夜間用おむつシート×4パック、マスク500ヶ、ペンライト約40ケ、ナイフ約10本。ミネラルウォーター48 。テント6人用×1。自転車×1 シ-ト×2 カセットコンロ×2、ボンベ×12 ウェア×3 新品タオル×10など。

本日の安藤ミルク配達隊は、
・仙台市宮城野区 ヘルシーハット
・名取市役所社会福祉課子ども福祉係
・塩釜市役所対策本部総務課
・石巻赤十字病院
に、アレルギー用ミルク+アレルギー用食材、診療材料などを届けることができた。

 今晩はこのセンターの片隅をお借りして寝る。

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