Charles Snead Houston先生のご逝去を悼む 中島道郎
去る11月7日、堀井昌子先生から、フランスの Dr. Dominique Jean からの情報として、私の崇拝すること神の如き米国バーモント大学名誉教授・Charles Snead Houston先生が、この9月27日にバーモント州バーリントン市の自宅で亡くなられたというメールを頂いた。大変悲しいニュースであったが、かねてより、この日が来ることは覚悟していたので、それは冷静に受け止めることが出来た。Googleで検索したところ、直接死因の記載はなく、享年96歳、とあった。天寿である。
ハウストン先生がどんなに偉い先生であったか、は、すでに登山医学Vol.17(1997)1)に詳しく書いているのでここには繰り返さない。とにかく先生は、登山家としても、臨床医としても、かつまた、研究者・教育者としても一流の存在であり、医学の中に『登山医学』という学問分野を確立した歴史上の人物である。私はこういう大人物に知己を得、実に色々のことを教えて頂いたことをこの上なく有難いことにもまた名誉にも思っている。
そもそも、私たちがハウストン先生と親しくして頂くことになったそのきっかけは、ちょっと変わった経緯によるもので、わが日本登山医学会にとっては幸運な出来事であった。
話は1981年春に遡る。当時日本山岳会の事務所によく出入りしていた人たちの中に、私の患者さんで今は亡き堀内章雄君という人が居た。その彼が、どういうルートからか、ハウストン先生が、アメリカのエベレスト医学調査登山隊(AMREE’812))の本隊に少し遅れて、単身でベースキャンプに入るという情報を入手、それなら途中成田に立ち寄って行きませんか?といった意味の手紙を書いたところ、立ち寄ってもいいよ、という好意的な返事を貰った、だからすぐに成田に来て下さい、という電話をくれた。こういうところが堀内君の変わったところで、我々普通の人間にはそういう発想は生まれない。私は彼のそのセンスに驚いたが、好機逸すべからず、取るものも取り敢えず成田空港に直行し、先生を迎えた。空港ホテルに部屋を取り、成田不動に案内するなど、翌日のフライトまでのまる24時間、べったりと先生のお相手をした。それは丁度日本登山医学研究会(現登山医学会)が発足する少し前のことだった。私は拙い英語でこれから我々がやろうとしている研究会について熱心に説明し、来年5月その会を京都で開催するについて、特別講演をお願いした。先生は気安く受けて下さって、『高山病と高所生理学』と題するスピーチをして下さった。翌日は比良山にご案内した。この時先生は、信州大学の小林俊夫先生一門の高所肺水腫の話にいたく感動され、翌1983年春に予定されていた、カナダのバンフにおける第3回国際低酸素症シンポジウムに発表するよう強く勧めて下さった。同時に私にも「日本の高所登山医学研究の現状について」報告するようにと求められた。こうして、わが日本登山医学会はその出発の時点で、世界の碩学から評価された学会として認められる存在たりえた。先生に評価されてなかったら、この会は今まで続いていたかどうか怪しい。その意味で。先生は日本登山医学会の大恩人なのである。そのバンフで再会した時、先生を“Dr. Houston”とお呼びしたら、”Who is Dr. Houston? Call me Charlie. I’ll call you Michiro”というお言葉が返ってきた。以来、先生と私は“ロンーヤス”の関係になった。それは実に有難いことに思っている。
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2008年10月1日アメリカ合衆国ニューイングランド地方を訪ねる機会があり、足を伸ばしてバーモント州バーリントン市の先生のご自宅を訪問した。非常にお元気で楽しくお話が出来たが、それが今生の見納めとなった。
1):登山医学の領域におけるInternational Hypoxia Symposium の功績とその展望
― Charles S. Houston 先生を讃えて―、登山医学 Vol. 17:111‐121, 1997
2):American Medical Research Expedition to Mt. Everest 1981 (AMREE ’81)